おのずと書くと随筆でなく日記になる

書くことねえなあ。どうしようか。何かする? 何をしよう。何もしない。
結局のところ「わくわく」というのはすごい。「期待」や「抑圧」と切り離せないもの。成就した瞬間、あるいは成就に漸近するとき、しかし喪失するもの。
達成の喜び以上に、僕は「わくわく」を魅る。本当は、これ以上、を望むからこそ「わくわく」であり、「わくわく」は可能性への渇望であるはず。なのに、「わくわく」以上、を得ることはない。経験上、ありえない。
いつ「わくわく」した? そのあとは? 満足したのか。
期待以上、という事柄は、僕においてめったに起こらない。結末にいつも首をかしげる
いわゆる「ブツ切れ」で終った物語を、僕は非常によく好む。それを「ブツ切れ」と知らないときに限る。ので、非常によくできた結末だ、そして物語だ、と感想する。構造のうえで、それは結末でない。結末であればよかったのに、と知識してからいつも思う。
「わくわく」が「すっぽ抜けたような」感じと表したい。なぜ好きなのか。
ところで、なぜ好きなのか、という問いには、どう答えようか。どのように好きか、何が、どこが好きか、と換言できそうである。
あれをこのようにみたら、好きだ。と答える。のが、思うに妥当だ。評論である。

えろげとか、したい。
お茶を飲む。

ケーリーとハミルトンは、別人。ハミルトンとケーリーも、また別人。

自動車のライトが当たり眩く映える女子高生のふとももがすてきにすぎる。ところで、なまあし、か、そうでないかは、いかようにして見分ければよいのであろうか。視力が低いから、知識の問題ではなかろうけれど。眼鏡ではだめなのだ。基本的に、掛けていないほうが、さまざまなものをきれいにみることができる。失うことのできない宝物である。
健全な病んでいる高校生らしい話をしましょうか。
大学でどのような研究をしたいか、ということですが。勉強でなく研究というのは見栄です。
あながち見栄でないかもしれない。関心と、知識のあいだに、深い隔たりを感じる。どちらもが大切である。それぞれに言葉を吹き込む。
得るべき知識のために大学で勉強しても、このおれさまの関心に対して、なんらかのはたらきかけをするのは難しい。そこで研究という言葉を新たに持ち出す必要がある。得るべき知識は多い。勉強しなければならない。その一方で、このおれさまの関心には、このおれさまの研究をもって挑まなければならない。
言い過ぎである。なぜなら、このおれさまの関心について、必要な知識が必要であるということを、実は自覚しているからだ。見栄である。
「意味」に対して「単位」を、ひいては「次元」を与えることはできないものか。ということを考える。僕の感じる「意味」が「強い」という事柄を、別の仕方で表したい、ということでもある。
幻滅したことがある。僕に対してである。優雅な物腰など程遠い、と感想した。
僕は、物腰は人柄である、と思っている。行動主義くさいけれど。そしてまた、ひどく僕を貶める思想だけれど。さらにかつ、ひとを貶める暴力でもあるが。
これほど汚い言葉を知っているのか、と呆れた。とりもなおさず、汚い言葉をうまく扱えるということ。つまりそういう、物腰可能性の持ち主であるということ。
滑稽で、あまりに滑稽で、嘲笑った。それでもなお、優雅な物腰を気取る愚か者! 「煩わしい」「快くない」などと、必死に言い回す。もっと汚い言葉を知っている、すなわち扱う、つまりは人柄を、自覚している。
大人は変わらない、というのが信念だ。このおれさまルールをどこまで適用するつもりだ。彼に注意すればよいではないか。できるか? すべきなのか? こういう疑問詞をもって語りだすだろうよ。「なんで──」と、そして、「──ない?」こう結ぶ。修辞疑問文じゃん、とおどけてみせる。もちろん僕に。雅でない。
明日は数学のテストがある。今夜、行列の計算をする。
trace、determinatなど、愉快な用語が登場する分野である。後者は「行列式」であるが、訳語「決定的要素」をみたとき、ただものではない、と直観した。