ひと・本

さいきん本が読めずに悩む。図書館で予約本を受け取ったらちほさんKU。の本で四冊そろって。おれは、だれのため。なんために、本を読んでいるのだろう。とか落ち込んでみせた。『黄金の羅針盤』を読もうとしても「ファンタジーなんて読んで何になる」「もっと読むべき本を積んでいるじゃないか」とか天使とも悪魔ともつかないものがささやく。
というわけで、今朝、平野啓一郎『本の読み方──スロー・リーディングの実践』を手に取ったのはもっともな流れである。ふと気になって、棚に並んだ『ウェブ人間論』に目をやると、やはりこのひとはもっちーの相手のひとでしたか。数ヶ月前にこの本を買ったときはまったく気にしなかったのに。
そしてこの本が大当たり。ですよ。とても落ち着く。やはり新書はよいものだ。僕もいっぱしの日記書きなわけで、ちょっとした表現なんかに気を遣うこともけっこうある。隠れた価値の価値はその点でよく理解している。その視点でいいのだ。僕は書くときに焦ることはない。それと同じように、読めばいい。
「読んだ本について、他の人とコミュニケーションが取れる」(p.36)ことが述べられていることにも救いを感じた。そして、そのことの「難しさ」を見落としていた自分を愚かに思った。だれかのために読むことは、自分のために読むことと、同じだけの行為・価値を通じて得られる魅惑のおまけなのだ。話題づくり、などといった姿勢で、果たして何を得られるというのだ。それこそ「単に読んだという事実だけだ」(p.21)。
筆者が助詞・助動詞の重要性を指摘したとき、ゆっくりと読むことの必要性を痛感した。ごくわずかな語呂のゆがみに、あいまいで重厚な意味を込めようとすることは、僕だってしばしば意識している。僕は書く。その視点を自然にもてるだけ恵まれているのかもしれない。それなのに、どうしてひとの込めた意味を冒涜する愚行を、僕は自分に許すことができようか。
「一冊の本を読むことで連鎖的に読む本が増えていく」というのはよくあることだが、言い換えれば、「次に読むべき幾冊もの本に支えられてこそ、その一冊は成立している」ともいうことだ。一冊の本にじっくりと取り組むことの豊かさを、この視点によって納得させられた。本を読むということは、ひとを読むということだ。それはもはや比喩というか、それ以上に大きな何か真理のようなものをうかがわせる。だれか、という前提、そして本質。
冒頭で筆者が「多読」と「速読」を区別したのは目から鱗だった。たしかに、敬意をいだく本読みのみなさんに「速読家」のレッテルを貼った覚えはいままでにない。「あのひとのように本を読めたら」というあこがれを、まちがった方向性でいだいていた。
ひとと本の関わり。簡単に語り尽くせるものではないから、ぶつ切りだけどこれでひとつの文章です。