学習についてさいきん切に思うこと

いままでの学習はトップダウンともボトムアップともつかないものだった。「――ならなんでも」という趣味に対する構え方は学習に対しても同様であった。枠組みの内部ではなく、その外部を指向する、枠組み自体のあいまい化または拡張に学習のあり方をみていた。もちろん、それも教養を広めるうえでは有効な見方ではある。

やりたいこと、という言葉はよく問われるが、僕はしばしば、できたいこと、という言葉をもって目的意識をもつ。達成したいことがあるとして、それを実現するために欠かせないことがある。それを、できたい、と思うのだ。それをできるようにするための学習に欲求は覚えない。しかし、やりたいことという欲求と深く絡みついて目的意識に溶け込む。

このような推移から学習するとき、そこで身につける知識や技術はトップダウンに展開される。ある目的のために必要な対象を選び出し、極論すれば、それのみを学習すれば問題は解決される。関心を中心に展開するトップダウンな学習は目的を達成するという観点のみをいえば効率極まる方法論である。

もちろん、その目的というのが自身の関心に依存するという、再帰的な側面には注意しなければならない。たとえば、目的が矮小であれば、トップダウンな学習を簡単に済ませることができるが、その価値は望めず、かつ目的の広がりも期待できない。トップにくる目的をどう引き出すか、または与えられるか、ということに関して、我が身をどこに置くかというのも重要な問いである。

トップダウンな学習は個性に依存する。だから教育機関に実現できるのはボトムアップなカリキュラムである。それ自体を否定するつもりはない。目的や問題に対する意識は、先に述べたように質の保証されたものではない。ましてや、学生においてはなおさらである。ゆえに、ボトムアップな教育をせざるをえない、というのが現実である。

たしかに体系的な学習は一般性が高く、のちのちに生じる目的意識に対する良質な土台をつくるには効果的である。しかし、それはある目的というトップがみえたときにのみ発覚する意義である。この点を意識できない学生はボトムアップな学習にまったくの欲求をみいだせない。

教育のあり方を変えろというわけではない。各々が向かっていく先を見据えるほかない。そのために教員がどういう工夫をするかというのは、べつに義務として問うようなことでもないだろう。