読むと語りたくなったり語りたくなくなったりする

なんか読むでしょ。語りたくなるでしょ。Amazonのレビューみるでしょ。もう、いいや。
で学習するでしょ。なんか読むでしょ。語りたくなるでしょ。Amazonのレビューみたくなるでしょ。みてはいけない(戒め)。苦しみながら感想を書く。それは「望み」じゃない。
読んで、語りたくなる。読んで、語りたくなくなる。
さいきんの日記でこういう仮説を立てた。一方は、世の中に僕の望む情報はドンピシャでありえないので情報収集するほど思いが募る(情報の雨に傘をさすまでもない - 反言子)。他方は、知り合いの情報はつねに楽しい理想の情報だから、知り合いの情報に触れると満足して萎える(情報に挑戦するとき - 反言子)。
あっと驚く情報を得ると語りたくなる。求める情報を得ると語りたくなくなる。
でも、「語りたくなる」という状態が、そもそも「語りたくなくなる」という方向性しかもちえない(永遠なるものを信じ切れないならば)。だから、語りたい「のに」語りたくなくなる、じゃなくて、そらもう自明。
語る意味とか考えたくなる。自分ごときの考えが、とか謙遜する。もし自分の考えに独自性があるなら、とか驕る。語られていないだけでみんな既に考えているのでは、と不安がる。しかしそれを記述することに価値があるのでは、と前を向く。とか考える一方で、どうでもいいよ、ただ欲求をパーするんだって考える(そんなことを意識的に考えるはずないので、正確にはふりかえる)。
だれか語りたいひとがいる。そのひとは語りたくなくなってしまう事態におびえる。そこで彼は苦しんで語ろうとする。ことができないこともある。もし僕が彼の望む情報を与えたとき、僕は彼を満足させてしまうだろう。彼は欲求をパーするだろう。そして彼は失敗を認める。僕はひとの言葉を消す。おー、と震えてみる。
この日記の現タイトルを思い出す。反言子。言葉とぶつかって、言葉を消す言葉。僕はひとに言葉を消されるし(勝手にパーするんだけれど)、僕はひとの言葉を消すかもしれない。だからなんだって。おー、っていうほどのこと。
読んだり、読まなかったり、語りたくなったり、語りたくなくなったりする。語るために苦しんだり、語らずに満足したりする。どちらにも不満が残る。語りたい欲求を奪い合っている態系(ゲーム)を想像する。僕が、語りたく、苦しまずに、語るリソースは、ひとの苦しみやパーした欲求のエネルギーから構成されるという妄想。
苦しまずに語るという事態に、僕はどんな言葉も尽くすことができない。「苦しまずに語りたい」という欲求を記述すると、問題は着膨れする。「苦しめずに語れているとき、語りたいという欲求はパーしている」と仮考しても、なんの実用性もない。「苦しまずに語れ」などと書いてみると、片腹痛い。僕が老人の域にあるならともかく。
習慣化するという解決方略を立てる。習慣に陥ったとき、「苦しまずに語りたい」という欲求は永続的パーするだろう。欲求と戯れたい。だから習慣化は絶望である。欲求はよみがえらなければならない。
欲求がよびかえる仕組みを想像すると、苦しみは不可避ではないかという着想が出る。それは困るので目を背ける。
構造上、この文章は絶望を伴わない終わりの言葉を出すのが難しい。そこでこういう、くそつまらない自己言及を終わりの言葉とする。これもたいがい、絶望だ。