ブログについて

議論について。ブログは議論に向かないと思う。テキストで議論することが難しいから。議論するための場が不明瞭だから。議論の素人がほとんどだから。ブログでブログを論じたくないなら、ブログを議論以外で使い続けるしかない。それが「メッセージ」だ。
ブログはただの日記であるか。日記にもおもしろみはある。ときにはコンテンツともよべる。ブログを日記として使うことをとがめられる道理はないが、ただのだれでもみれる文章のような何かに過ぎない。
ブログはフローであるか、ストックであるか。その両方を備えると思う。一般に思われているほどリアルタイムではなく、一般に思われているほどアーカイブではない。ごくまれな変態の視線によってブログはリアルタイム足り、同じくアーカイブに足る。
ウェブログだ。ログは蓄積にこそ価値を見出したい。しかし蓄積は肥大からまぬがれず、つまり重い。しかし自分にとってはアルバムのように気軽で懐かしい、密度の濃い情報である。アーカイブにおける第一の変態、それは自分自身だ。
ウェブだ。星の数だけブログがある。そのなかでなんの根拠もなく立脚できる個としてのブログ、そこに迷いなく視線を注げる変態もまた、第一に自分がいる。
ブログは自分のため、そして自分のいま、およびこれまでの自分、のために使うべきだ。いまとは何か。インプットとアウトプットをつなぐ瞬間だ。ふだんは暗黙的に処理される不毛と創造のソースに匙を差し込む。ときにはインプットそのものに過ぎず、あるいはどの区別をもつけられない。
いつのまにか、ログは蓄積されている。振り返らない限り、それは姿をみせない。過去には見通しがある。求めるのは意味だ。障害は形式、あるいは、その形式たちの差異、さらにそれらの差異。バリはていねいに取り除いたほうがいい。もちろん、それは本質ではない。
書くことは問題意識にもとづく。わからないこと、わかったこと、変えたいこと、いやなこと。意見がある。意見にはオプションがある。理由だ。もしくは、単なる事実がある。ある問題意識は、最大で三つ、これらの組み合わせによって表現しうる。
変わり続けるものをいかに変わり続けるか論じることはできない。あるときとあるときを論じれば変化を定点観測できるかもしれない。しかしどう変わっているかに注目すれば、その手間はより省ける。それが現在を失わない限りで。
変わり続けるあなたの、あなたのブログは、どうやってその姿をつなぎとめるのか。