「つくる」を追究する学問のあり方

2009年7月9日 『パターン、Wiki、XP 』刊行記念トークセッション「時を超えた創造の原則」 - omote87 - ハチロク世代
上のイベントをみて思ったこと。この辺の知識は『クリストファー・アレグザンダー』を半分読んだくらいで、以下はてきとうな妄想として。
なんらかの結論を述べた文章ではありません。ご了承ください。

魔術

魔術に明確な定義はない。未知の力を利用して目的を達成することが魔術だと思う。目的のためには未知の力と既知の力を組み合わせることも道理だ。しかし未知の力を解明することは魔術に求められない。使える力をありったけ利用するのが魔術研究のあり方だと思う。
現実では魔術は発達してない。科学的な考え方の強さが背景にある。できる限りブラックボックスを解消したほうが、いろいろなことがわかり、いろいろなことに応用できる、と考えるのが現代における科学と技術の考え方だ。ゆえに魔術に没頭することは非常識である。
もし魔術が発達するとしたら、システムが複雑化するほどブラックボックスは些細になるという仮説が成り立つと思う。多くのことを解明した一方で分析的な考え方が現実の問題を解決するうえで無力だとわかったのが近代科学で、その問題に取り組むのが現代の科学の方向性だと思う。あくまで解明を前提にしたアプローチである。しかし、大きなことを成し遂げるためには何かを解明しなければいけないのか。未知の力を組み合わせ、どんどん力を大きくしていくことで魔術は成功するのではないか。魔術は目的のためには何も(「わからない」ということを)恐れない姿勢をもった技術体系であると思う。

工学

科学的な知識を産業に応用しようとしたのはわりと最近、近代になってからのことらしい。知識は分業と標準化を促し、大量生産を可能にする。

科学

アレグザンダーは建築を科学的に研究しようとした。しかし目的は分析することではなく、よい建築をするためである。事実として、よい建築物はある、よい建築家はいる。しかし、なぜよいのか、どうすればよくつくれるのか、ということは解明されていない。つくるための解明、いままでにない目的意識を持った科学的考え方を追究しようとしたのが、アレグザンダーの画期的なところだと思う。
ところで、科学には構成論的方法という考え方もある。たとえばシミュレーションを通して社会の動きやひとのこころを解明することだ。一歩一歩追っていくには複雑すぎる現象を、初期値とプロセスに基づいて動かすことで理解を試みる。その目的はあくまで解明だが、その過程でつくるための科学的解明をもたらす可能性もあると思う。
科学でもつくることを扱う。一方ではよいものをつくるという目的意識であり、他方では現象を解明するための手段である。さて、前者は工学といかに区別されるのか。べつの問い方をすれば、産業の目的とは何か。

職人

よいものをつくるひとは職人とよばれる。職人は鍛錬によってその能力を身につけるが、なかには天才もいるだろう。実直な鍛錬によって努力と時間を費やして能力を受け継いでいくのが伝統的な職人のあり方だろう。しかし天才の技術や考え方を解明することで効率的な鍛錬をみちびけるかもしれない。でも、それは職人の仕事ではない。
職人の天才的能力を解明し、いわゆる職人技を技術として解明することは、ある種の科学的追究といえるだろう。
なんとなく、それを機械にやらせることが工学であるというイメージがある。工学とは自動化をテーマにしたものか。もちろんひとつの側面ではあるだろう。ところで、コンピュータに関しては抽象化・仮想化が重要だったりする。しかしそれはコンピュータ・サイエンスとよばれたりする(笑)

人工物

サイモンは"artificial science"を考えた。これが「システムの科学」と和訳されたことは興味深い。近代科学は自然の解明に終始した。我々は技術を身につけ、高度な人工物をつくった。高度な人工物はもはや解明の対象にすらなった。我々がつくったにもかかわらず、我々が理解していない、という事実は示唆的だ。つくるための科学との接点もうかがえそうだ。我々は、わかっていなくても、つくって、使うことができる。これを魔術とよんではいけない理由は何か。