書くこと

書き始めは奇蹟みたいだ。ただの時間的先行じゃない。ただの時間的先行が書き始めになれるのなら、書き始めは意識に先行する。気づいたら書き始めている。書くことは記述:思考から時間次元を取り除いたもの。では思考は時間的なのか。時間的最初の思考が、考え始めなのか。考え始めが意識に先行するのは自然とも思える。思考内容、としてみると、その考え始めは、思考内容の最初ではない、と考えてみることを僕はできる。
くっそなんにもないときを過ごしたあとに、じつはなんかあって、書こうという気になることもある。なんもないことから書こうが出てくるのは、反省すると、何もないことから書く、貧しい活動のように判断することができる。逆に、それを豊かさではないかと方法的逆説思考もできる。なんもないことが自分の生活において時間量的に重要だとしたら、何もない事態に言及することは重要な気がする。だいたい書いてることなんて、そのときにしか書けない。その書き能力は職能として未熟にきわまる。一回性が文章の豊かさ軸の一つだとするなら、ただ書けば、そのソースがなんだって、そのときに書けば価値がある。
どうでもいいことだって書こうという奮起としての解釈が一方で、どうでもいいソースから書けてしまうという事態に豊かさを見出す他方。
なんでもないんじゃないか、と推測するのは失礼だけれど、書いているひとをみると羨ましく豊かにみえる。だからそんなふうに書けば豊かじゃないかと思う。
時間的先行が、説明的・記述的書き下ろし順序と望ましく一致しない事態はいろんな知的仕事において重要だと思うけれどあんまり議論されないというか、その議論の活動は時間的にしかおこなえず、その議論の説明・記述は次元縮減的にしかおこなえなくて、このギャップの生々しさを感じながらこのギャップを理解するには工夫が必要に思う。