ごはんがうまく炊けない

百均で土鍋を買ってから土鍋でごはんを炊くようになった。このまえ買った米がうまく炊けないので困っている。芯が残ってしまう。それ以前は、強めの火で8分、弱めの火で8分でそれなりに炊けていた(鍋底が小さいのであまり強火にできない)。
うまく炊けるように炊き方を調整しなければならない。むやみに強くすると吹きこぼれるので、吹きこぼれそうで吹きこぼれないくらいで加熱を続けたい。それには繊細なフィードバックが必要なので「○○で××分、△△で□□分」のようにマニュアル化できない。
コンロにつきっきりで米を炊く日々は受け入れがたい。ミクロ(米を炊くこと)にはまず「繊細なフィードバック」が必要だが、マクロ(米を炊く日々)には「繊細なフィードバック」の幅を小さくしていくフィードバック、をかけていって、マニュアル化を図るのがよい。
「強めの火で8分、弱めの火で8分」というのは雑なマニュアルだ。「弱め」の調整には気を遣いながらも感覚的な調整に過ぎない。同様に「強め」もあいまいだから、「8分」経たずに吹きこぼれはじめるときもある。しかしおおざっぱには、マクロなフィードバックによってたどり着いた局所的な正解として機能していた。
ひとたび明確な失敗をしてしまうと「○○で××分、△△で□□分」というマニュアルの枠組みに限界があるのではないかと考えてしまう。「、」をもう一個増やさないといけないのでは。それか「〜〜たら〜〜する」のような制御構造を導入しないといけないのでは。などと考える。
「、」や「たら」が増えると、考えないといけないこと、試さないとわからないことがどんどん増える。「、」や「たら」の前後にある言葉は、互いに影響を及ぼし合うからだ。こっちを変えてもうまくいないのは、あっちとのバランスが悪いからでは、と疑ってしまう。「、」も「たら」も一つもないマニュアルを構成できるとうれしい。
電気炊飯器がそれだ。「ボタンを押す」だ。(水張りがうまくできていると仮定して)
僕が絶妙の火加減を肌感覚で発見して、僕が自宅で米を炊くための「x分加熱する」というマニュアルを構成できるかもしれない。けれどそのために必要な試行錯誤(マクロなフィードバック)を考えると「、」が一個あるマニュアルで妥協するのが無難に思える。
技術を利用するか、自分なりの試行錯誤を繰り返すことで、マニュアルの「、」を減らすことができる。ひとびとの積み重ねた知恵を使うか、みずからの積み重ねた知恵を使うかだ。単純なマニュアルは真摯な知性のたまものだと思う。