集団行動:発見/同調

水族館で子どもがDSをもっていた。なんで水族館でゲームしてるんだろうと疑問に思ったら、写真を撮っていたようだ。子どもにとってゲーム機ってそうなんだ、と感心した。ゲーム機でゲームを遊ぶのはゲームのなかに入っていくイメージだけど、そこでのゲーム機は子どもの手足や目の延長にみえた。
アクアリウムの展示では大人がケータイをもっていた。タイムスリップの経験がないのでさすがに「なんでケータイで電話してるんだろう」などと疑問に思う真似はできない。その意味はただソノママに理解できる。だから感心の仕様もなく、ただ感覚として、きもちわるいなと思うだけだった。
子どものDSといったい何が違うのか。その違いを理解、説明できるわけではない。一方を理解、説明できないから、自分の知らない何かがあるのではないかという持ち上げをしている。
同じ撮るということにしろ、あるときは感心のきもちをもって、あるときはけむたいきもちをもつ。撮るはみると連携している。撮るがみるを浸食するときにきもちわるさを感じる。逆に撮るという制約を通して、よりよくみるというアプローチもありうる。撮る=貧しい「み」とは限らない。ひっしにケータイを握りしめるひとたちがそのどっちかなんてことを僕が判断するのはばかばかしい。ただ気色を感じるだけだ。
こういう場所でだいたいひとはグループでいる。その効能は何か。ひとの数だけ目がある。グループは目が多い。目が多いから発見も多い。結果、グループは発見が多い。たまに物理的隣人から目が漏れてくることがある。それを借りて発見することがある。たったひとつの目は狭いものだと気づく。
わるい気色が満ちているとつらい。ぼっち力が足りない。そこでささやかな併せを試みる。途端に周りがみえなくなって、つらさが消える。いまみずからが貧しい「み」の境界に立っているかもしれないという反省もいっしょに忘れる。そんな感じで、周りに併せるということにも効能がある。副作用も当然。じゃあそれは併せることの効能なのかというと、そうでもなく、ひとつの制約を選ぶ効能ではないかと思う。便利な効能は人気が出て、その結果が同調にみえる、のではないか。
なぜ制約によって楽しくなるのか。その答えは僕のなかで言い表せていて、制約は観点を内包するからだ。ところで型があるからこそ自由に創作できるという意見がある。型と制約をまぜこぜに考えるなら、一つに制約からは立てない観点があるように、一つの型を極めても表現できない領域はあるように思う。考え直すなら、自由は、型を使うことではなく、型の使い分けによってたどり着くのではないかと思う。方法と方法論の関係にも近い。