読めるべし

漢文。古文と並んで「やる気が出ない科目」の筆頭にあたる。読んでもわからないし、読めているようでもおもしろくないからだ。本当は「読めない」のであり、「やる気を引き出せない」のだと自覚している。読めれば、これほどおもしろいものはない。漢文で述べられていることは、たいがいにおいて僕好みのものだ。読めるべし。
なぜ漢文を学ぶのか、こんなデタラメな言語があるものか。そういう意見もあるだろうが、原語に手を加るだけで読めるようにするという発想は、(良く言えば)とてもスマートだと思う。このような発想をなにかほかのことに応用できないだろうか。抽象化するに、「異質なものでも構造を組み替えれば解せる」のだ。言い換えれば「異なった構造でも、要素の次元において共通している部分は大きい」ということだが、場合によるだろう。
むりやり逸脱してみるのも難しいものだ。ところで思うに、要素への理解と、構造への理解は、別の次元である気がする。もちろん要素なくして構造は成り立たず、構造なしに要素は位置づけされないため、両者は相補的な関係にある。あの、あれですよね、「もちろん」とか「たしかに」ときたら、「しかし」と応じるのが世の常なのですが、手詰まりです。なんていうんですか、強引な二元論化、図式化は「思考の節約」になり有益だと思うのです、ということです。