考えるか、書き留めるか、それが問題だ(1)

ノートを取ることは大事だが、それ自体が目的になってはいけない、とよく聞く。いまや真摯に受験と向き合う級友たちはそれをよく心得ているようで、話を聞くべきとき、また考えて理解すべきときを分別(ふんべつ)して授業に臨んでいる。僕も理屈の上では理解しているから、やみくもにノートに書き留めるようなことはしないように心掛けている。
無益であることを知りつつ、ただ書き留めたくなるときがある。理解できないときだ。わからないから、とりあえず書き留めて安心しよう、という意図があるのだろう。もはや黒板に連なった記号は意味をもたず、しかし、それを書き写す。書きながら先生の説明に耳を傾ける余裕もない。余裕がない、というか、聞いて理解できなかったらどうしよう、どうせなら書き写してから自分でゆっくりと考えよう、と思っている。
級友たちは黒板を見ている。ただ、見ているだけだ。何もしていないようにみえる。考えるということは、何かをしているようにはみえないことだからだ。何もしていないのか? とんでもない。何かをしている僕こそが、本当に何もしていないのだ。
写し終えた記号の連なりは……おいおい、考えてみろよ、なんのために先生は板書するのか。説明するために、必要だからだろう。僕たちは板書されたカタチを手がかりにしながら、説明に耳を傾け、何もしていないようにただ考える。生意気な物言いだが、あの先生は優秀である、と思う。記号として提示すること、説明してみちびくこと、そして「僕たちは考える」という信頼を、それらすべてを計算して至ったものが、彼の執りおこなう授業だろう。僕のしたことは──「僕たちは考える」という信頼を、裏切った。
(ええい、続けましょう)