文章を書くときに「これから」を見通す余裕などない

ウェブ日記の書き方についてはよく語られる。読み手を想定するという話がそのひとつだ。3人とか四人とかのアレである。僕はそういう読み手に応じて読まれ方の変わる多重的な文章、すなわちザンノヒトの言ういい文章でしょうか、そういうのは書けない。読み手を想定するのは、ひとつの文章につきひとつしかできない。「文章に書く」か「彼(彼女)に向けて書く」か「サイト論」か、である。「彼(彼女)に向けて」「文章に書く」ということはできないし、「サイト論」を「文章に書く」こと、「彼(彼女)に向けて」「サイト論」を書くことも考えられない。僕なりの言葉で不親切に書いているが、要するに、読み手には「一人称」「二人称」「三人称」を想定でき、それらすべての読みに応じうる多重的な文章を書く技量は僕にない。
いかん。説明しすぎた。めんどうになった。

わたくしごとですが、いま大変なのです。大変といっても、すべての原因は僕の怠惰にあるため誇れるようなものではないというか、やれやれ情けない限りです。たまたま(怠惰により)この文章を読みまして、ああこれはよいものであるなあと思いましたので紹介します。
「これから」のために「一人称」を想定して書く、という主張にかねてから疑問を感じております。「これから」ッテナニ? と思っているわけです。それよりもなによりも、「文章に書く」ときに考えられる時間観念というと、「いま」しかないのですというか、「いま」も認識していないないし、ましてや「これから」のために文章を書くということがそもそも「文章に書く」という行為に矛盾するというか、ただ「文章に書く」ということなので、そういうことです。

ズーニーさんのこの文章は、そういう僕のあいまいな考えにぴたりと枠をはめてくれるようなものでした。ただし、新しく、いま、生まれた想いを言葉にすることは、過去と、現在と、未来が、ピタッとつながる瞬間でもある。という言葉にはぎくりとしました。やっぱり「未来」に「つながる」のですか!? と驚愕しました。「未来のため」ほどの意味は、しかし込められていないでしょう。僕はそう読みます。結果として「つながる」のであり、意図して「つなげる」ような企ては、ええやはり僕は多重的な文章を書けないものですから、「文章に書く」ときに考える余裕はありませんわけです。

  • メモ
    • たしかに「これから」のために文章を書くことは有益だ。結城浩さんの勉強日記の書き方(2005-10-06)にも感銘を受けた。僕にとって理想は、「文章に書いた」ものがおのずと「これから」の再読に堪えるものになること。どうしても「これからのため」に書かないのは、おやおやこだわりというものだろうか。
    • 「新しい読み手」を想定するのは、僕の文章にもっとも欠けている点だと思う。「サイト論」はもともと興味のあるひとなら皆読む。「文章に書いた」ものは、すでにきをふしに関心をもつひとなら、ある程度おもしろがってくれるだろう(僕はかなり読み手に期待しているほうです)。「彼(彼女)に向けて書いた」ものについては、新しい読み手を引きつけることをはじめから考慮していない。「すでにきをふしに関心をもつひと」ってのは、いったいどこから湧いて出たのだろう、とか思う。やばい、いないかもしれない。
    • この文章に致命的欠陥を発見した! 見出しが「文章を書くときに」と表記されている(笑)
    • これこれこういうわけで、実は「文章に書く」ということの説明を僕が拒んできたのは、しないというか、できないからですごめんなさいおねいさん。