新しいサービスやツールを利用しはじめると過去を参照して密度の濃いコンテンツを形成したくなる

新しいサービスやツールを利用しはじめると、過去を参照して密度の濃いコンテンツを形成したくなる。というのは、僕だけでしょうか。

プロフィールを書くときって、わりとそういうことを意識すると思うのです。新しい領域に足を踏み込むわけですから、その枠内において、わたしという存在はプレーンなはず。しかしわたしにはすでに人格があるわけだから、それを土台として固める。

ウェブに関していえば、あるコミュニティやサービスで形成した人格をなんらかのかたちでほのめかすことで、効率よく自己紹介できる。その過程には、過去の活動に関する要約が試みられる。いままでウェブで、どういうことを書いたか、どういうツールを使ったか、など。

より具体的に、ソーシャルブックマークを始めてみよう、というシーンを想像しよう。個人ニュースサイターならいわずもがな、そうでなくても、コレっていうページのひとつやふたつはみんなもってる、かな。そういうのをまずブクマしようと思う。プレーンな新天地において、熟成されたネタを詰め込んでいくわけです、しばらくは。

何より楽しいのです。自分をみつめること、情報を煮詰めることが。新しいメソッドは鈍ったアイデアに再熱を与えます。要するに「刺激」です。

たしかに、技術的な部分におけるアイデアというのはかなり出尽くしているかもしれない。音声や映像をリアルタイムに送受信する技術ですら、何年もまえに実現されている。素人がちょっと検索・ダウンロードしただけ楽しめるほどに洗練されたかたちで。目まぐるしく回転して飽きさせない遊び道具たちは、根本的なところではそう変わっていないのかもしれない。

おれ、hogehoge(任意の最新ウェブサービス)使ってるんだぜ! と通を気取っても、むしろ痛である。しかし目新しさがどうやらひとに刺激を与えるということも、わくわくする現実であると積極的に認めたい。ある「仕組み」に対する必要以上の意欲は、そのライン(仕様)を飛び越える。それはしあわせなことだけれど、ある面では飽きっぽさという本能でもある。

いいじゃないか。刺激の回転からアイデアの回転もまた加速するのだ。いってみれば、ツールとはアイデアに対する修辞法なのかもしれない。こころ躍る表現が言葉の意味を浸透させてくれるように、おもしろいツールはひとを賢くしてくれる。


「墓ニュースサイト」というアイデアがありました。ほかのニュースサイトの過去ログを参照してネタを集めようという、じつに効率的な運営方式です。

ただ僕が思うのは、「墓ニュ」とは手法であって、サイトのジャンルを示す言葉ではないということです。いくつかのニュースサイトがやっている「一年前のニュース」などの掲載(=再掲)も「墓ニュ」の一種だと思います。

このように「墓ニュ」とは運営という遊びにおけるひとつのおもちゃであり、「墓ニュ」のみを厳守する「ニュースサイト」を運営することは心理的に難しいと思います。「墓ニュ」というメソッドから得た刺激も束の間、しだいに意欲は低下していきます。もちろん、「墓ニュ」的なスパイスを加えて更新を続けている運営者もいらっしゃいますよ。

しかし手法の工夫に手間をかけすぎるのも興ざめです。このまえ、とあるブログで過去を参照する仕組みが実装されているのをみておどろきました*1。データベースを前提にしたブログだからこそ実現できるアイデアですね。自動化してしまえば、あるいは単純なメソッドに還元できれば、あるアイデアを活かし続けることも簡単になります。要するに「墓ニュツール」でもあればいいんです。

しかし「墓ニュツール」なんていう定式化された仕組みは、ぶっちゃけ想像しにくいです。「墓ニュ」的情報活用のアプローチにはいろいろな方法が考えられる。

ここではじめに言ったことを思い出してほしい(覚えているなら忘れてほしい)。「過去を参照して密度の濃いコンテンツを形成したくなる」という発想は、「墓ニュ」の思想そのものでもある。ちょっと話の枠を崩しかねない言い回しなのですが、その意味で、「墓ニュ」的ツールとは、新しければなんでもいいのです。新しいメソッドから得る刺激そのものが、「墓ニュ」的思想に直結するのですから。


ところで Tumblr がおもしろい。とらっしゅくん(id:torasshu)が利用しているの(***ッ狩)をみて、ふたつの感想をもちました。「これは引用が手軽にできそうなツールだなあ」と、そして「こんなふうにひとの文章を気軽に仮想所有するのはちょっと恐れ多いな」ということです。

そして思い至ったのが、「これは自分の文章を手軽にアンソロするためのツールである」という、つまり自己満足あるいは宣伝としてのアプローチです。なるほど、楽しいものだ。

主観的には Tumblr の空気には抵抗を感じる。けれど、このような自由な情報利用のおもしろさはちゃんとわかっているつもりです。ですので、僕の文章を引用していただくのは歓迎です。ここで表明するようなポリシーでもないですけど、いちおう。

すこし不思議に感じたので申してみますが、セルフアンソロとはいえ、集まっていく文章の断片に、まるで自分のものではないような魅力を感じてきたのです。意味は文脈に依存するわけですから、当然といえるかもしれない。

ある場面において、それは意味を失うことだ。しかし、ここで僕が感じたものは「密度の濃いコンテンツ」なのではないか。むしろ、意味を得たのだろうか? あるいは、べつの観点から意味を引き出したということだろう。

目新しさに飛びついて、過去を振り返って、ちょっとだけ気張って、いつのまにか飽きている。そんなことの繰り返しかもしれない。安定した蓄積が難しいのが個人サイトの宿命だろう。いや、「個人」の宿命といったほうがふさわしい。

しかし刺激の回転によって確実に煮詰まっていくものはある。プレーンな平野に立つたび、その片鱗が解放される。それも次第に閉塞していく、だからまた刺激は回転する。

わたしに対する静的な記述が難しいのは、巡りつづけるわたしのはたらきこそが、わたしを示すからではないかな。つまりみんな、おもしろいものはどんどん使えばいいのだ。

*1:カテゴリやタグといった「関係を示すデータ」ではなく、おそらく本文の「内容」をもとに形成されたリンクだったので、新鮮に感じたのです。や、もちろん「内容」といっても、突き詰めれば「データ」には違いないのでしょうが。