可能無限の閉鎖性

物語をひとに伝えたいときどうすればよいのか。たとえば結末を示すことは、一見、無難な勧め方である。ハッピーエンドだから大丈夫だよ、とかね。しかしハッピーエンドであることになんの価値があるというのか。いや、違う。ハッピーエンドであることを確かめることに、だ。
どんな結末にもそれぞれの趣がある。そこに至る展開にもさまざまな機微が込められる。その妙を語ることは、物語のパッケージングを誉めることで、わかりやすい。しかし物語の過程に対する自心の過程にこそ意味があるのだとすれば、パッケージに対するレビューは作品に対する破壊工作ですらある。
それを避け、いったいどのように価値をひとに伝えられるというのか。教えた途端に、その価値は機能を失ってしまうのだ。
人生というのもそんなものだ。いわば自分物語。わたしという物語がハッピーエンドであるとプレビューして、一喜一憂の巡りのなかで、喜の瞬間を狙い澄まし意味を突き刺す。だから生きることは楽しいんだ、なんて。
わたしの人生になぜ価値があるか。こうなるはずだから、と答えたとき、そうなることの価値は空洞化する。何が起こるかわからないから、すばらしい? それもレビューだ。
だからわたしは、優れた物語に関して、誇れるわたしに関して、このように申すほかない。おまえが読め。