やりたいことをやるのがめんどうくさいという感覚

できないこと→やる - 反言子を書きながら意識くっそ低い人間のための「学習パターン」つくりたいと思った。しかし、けっこう、そういう「できない」という悩みのためのパターンは本家学習パターンからも見出せる(たとえば学びのなかの遊び )。じゃあ要らないか、ということを思った。
しかし意識くっそ低いときっていうのは、そのひとの性質というよりは、一時的、あるいは数日レベルの短期的な感情の状態から影響される。しばらく何もやらないでいると、やりたいことをやるのもめんどうくさい、という感覚を明確に意識できるのだ。なんていうかこれはメンタルヘルスの領域かもしれない、あるいは医学の領域かもしれない、つまりコンテンツやソフトウェアではなくて物理的根拠のもとで対処すべき原因もあるかもしれないけれど、そういうのを信仰したくない性格において正しい行動を選択する望みは希薄である。
だいたい「つまらないことをおもしろくする」なんて意識くっそ低い人間にはジョークにしか聞こえない。いや、意識くっそ低い感情状態の人間には。僕はリア充とは状態であると思っている。同じく意識の高さも状態であって「彼は意識が高い」とは「彼は意識の高い人間である」ではなく「彼は意識の高い状態である」という意味で理解すべきだと思っている(あるいは「彼は意識の高い状態になりやすい性質である」)。「やる気はやると出てくる」というのもジョークだ。だから僕はそんなたぐいの応援を真に受けるゆっこはすごく素直だと羨む。僕は感情と賢さを切り離せない。だから緒花って(中略)思考と感情と行動とのバランスのとりかたがすごくうまいと尊敬する。
そんなゆっこがしあわせに生きられる世の中が理想の世の中だと思うけれど、僕はそんなに素直でないうえに精神的に幼いので簡単にすねたり問題を精神的にこじらせたりする。(中略)発想の転換を加えないといけない、そんなジョークを考えたのが僕であることに驚くと、意識くっそ低いのは人間の性質ではなく状態であることに理解は及ぶ。