いい気分:ひとりで考え事/ひととおしゃべり

風呂に入っているときとか、とくにそのあと、風呂から上がって着替えたりっていうときに、とりとめのない考え事が起こることがある。なんかやらなきゃって焦っているときは、焦りばっかりが大きくなって、考え事をしている気にはならない。考え事が進捗しているかという測定じゃなくて、気分の話として。気分として何かを考えていることがある。そんな気分が一息ついたとき、なんと、いま自分は焦ってはいなかったのか、という、まあ、実際はそんなネガティブな表現はしない、なぜなら比較対象を想定しないから、なのだけれど、とにかくよい気分になる。ここから、考え事にふけっているときはこうふくだなあ、という説が現れる。焦って、うう、ああ、あ、ってなるよりは、たっぷりの時間、考え事する暮らしが豊かではないか。
この状況は、べつの観点からいえば、ひとりである状況である。まったく逆の指向は簡単に思い浮かぶ。ひとりでない状況は豊かであるという説だ。たとえば、ひとりで閉じこもって、うう、ああ、あ、ってなるよりは、たっぷりの時間、ひととおしゃべりする暮らしが豊かではないか。うう、ああ、あ、この異説に僕はどう理解を試みられるだろうか。じつは、そのひとたちにとって、おしゃべりは考え事なのではないか、という高レベルな説がここで(風呂から上がりながら)現れた。
僕はおしゃべりをこう解釈する。まず僕は「考える」という機能を実行する。しばしばこの機能は「ひとのしゃべったこと」という引数(正確には、「ひとのしゃべったことを理解する」という機能に「ひとのしゃべったこと」を入力したときの実行結果)をもつ。この「考える」の実行結果を、「しゃべる」という機能に入力した結果が、発言である。「入力」を矢印で表現すると:しゃべる←考える(←ひとのしゃべりを理解する)。この解釈においては、考えていないことをしゃべることはできない。
ところが、日ごろ周りのひとびとのおしゃべり機能の応答性能をみると、ひとは「考えていないことをしゃべること」ができると思いたくなる。というより、しゃべったことが考えていることなのではないか。考え事の結果はあたまのなかにあるものである、という思い込みがハズレではないか。
あたまのなかにある思ったことや考えたこと、と、しゃべったことや書いたこと、は、区別しないほうがわかりよいのでは。どっちも、自覚できて、反省できる。あたまのなかにあることについても、自分のあたまのなかなのだから、自分にとって記述とよべるのでは。で、考えたこと、は、あたまのなかに記述されたり、音韻に記述されたり、模様に記述されたりする。
だから僕にとっても、おしゃべりにこころを安らげるひとは、なにも怪人ではないのだ。
表現のチャンネル(もっと高レベルに、ここでは記述のチャンネルとよべるぞ)には向き不向きがあるなあと日ごろ思う。模様にかくひと、音韻にかくひと、運動にかくひと、そういうひとたち僕には怪人だ。僕に残されたチャンネルは、自分のあたまのなかとか、ひとが読む言葉とか、機械に命令する言葉とかだけれど、まあべつに。
っていうことを考えて、つまり、何かを確かにやっているぞ、という豊かな気分というのが、何かをやることで味わえて、その何かっていうのは、べつに孤独と社交に対立させることもなくて、記述であって、その記述が内容そのものであると考えることで、僕には信じがたいようなひとの豊かなおこないも、そういうチャンネルが得意なんだね、すごいね、って受け入れた気分になれる。