おもしろ倫理

コンテンツが不徳なアプローチでつくられていることが不愉快で「不倫だ」と感じた。そのコンテンツを楽しみたい事情があるので忍耐していると、不徳センスが鈍って楽しくなってきて、それは目論見であると同時に、意図した敗北だった。そのセンスで考え直すならば、ひとのおもしろさへの意志を否定してはいけない、という徳に更新されるが、これを徳と言うのは奇妙だ。この「おもしろさへの意志」というのが「なんなのか」という感覚が残る。「おもしろさ」は「美」と比べたくなる。「おもしろさへの意志」は「善」と比べたくなる。けれど「おもしろさとは美」であり「それへの意志は善」であるなどというのは、その言葉を遣うには「通俗」過ぎる、と感じる。しかし善く生きるとは生き様の質であり、生き様という語感は俗への対峙にふさわしい、という感覚もある。ここで「そんなわけのわからないこと言うな」ゆえに「おもしろければよい」と還ると再び「不倫だ」。あいまいに結論するならば、ある意志に基づく美(的なの)と善(的なの)は、ほかの意志に基づくそれらによってうわ塗りされる。その重なりを思わず、超越的に「不倫だ」宣言するのは、意志を否定するリスクをもつ。けれど意志の暴走を防ぐセンスとして、超越的「不倫だ」立場にも意味があるのではないか。どちらを捨ててどちらを残せるという自信はない。そんなわけのわからない、おもしろくない、不徳センスを地において、浮きあがる居心地の悪さも味わいなんだろうか。