まるごとのミルキィホームズ

ミルキィホームズには二種類ある。
原作系統:新進気鋭の探偵としてのミルキィホームズ。ゲーム版。OVA版。
アニメ系統:だめだめなミルキィホームズ。アニメ版(第1期、第2期)。
原作系統とアニメ系統ではキャラの性格や効果音や登場人物が違う。たとえば原作系列にはゲーム版の主人公でありミルキィホームズにとっての先生である小林オペラが「これは重要なファクターだ」と言うが、アニメ系統にはまるで存在感がない。原作系統のコーデリアさんは体術使いで、アニメ系統のコーデリアさんは急にオペラ風に歌い出す。こういう違いからOVA版は「ミルキィホームズのアニメ」でありながら、アニメ第1期・第2期とは別作品といえるかもしれない。
アニメ系統のミルキィホームズがトイズを使って活躍するさまはファンに「全盛期のミルキィホームズ」とよばれる。「全盛期」はゲーム版のミルキィホームズに相当する時期である。ゲーム版でミルキィホームズは最後に大きな功績をあげて名誉を得る。逆にアニメ版はその名誉を汚すコメディとなる。アニメの重要シーンは「全盛期」の力を取り戻すことで魅せ場となるが、その力は再び失われ、コメディとしてオチる。つまりアニメ系統におけるミルキィホームズらしさとは「だめだめ」であって、「全盛期」は「だめだめ」を引き立たせるための演出である。
では「ふたりはミルキィホームズ」はどうか。効果音は原作系統である。ミルキィホームズの状況は「全盛期」に近そうだ。小林オペラは出てこないが、どちらかというと原作系統な気がする。と思ってみていると、主人公(ミルキィホームズに憧れる探偵の卵)によってある「設定」が発見される。「ミルキィホームズさんたちにトイズを失ってた時期があったなんて」(第4話)。分かれていたはずの系統が突如絡み合う感覚に僕は衝撃を受けた。
ミルキィホームズの原作系統とアニメ系統を別物だと割り切るのは簡単だ。でも僕の好きなミルキィホームズが一方ではかっこよくて他方ではだめだめで、それらが本質的に隔たっているというのは病的な分裂を感じる。「ふたりはミルキィホームズ」における「設定」は、僕がまるごとの「ミルキィホームズ」を見出す道を示してくれたように思う。
アニメ系統のミルキィホームズに原作系統のミルキィホームズが接続されることによって、徹底してコメディであったアニメ版に新しい世界観が吹き込む。アニメ版は「だめだめ」なコメディであって、汚名は機能的なネタであり、返上の余地はなかった。しかし発見された「設定」は、この汚名が返上され、「だめだめ」が克服された史実を示す。ここから「挫折の物語」という世界観がみちびかれる。アニメ版がコメディとしてどうしもなくばかげているほど、克服を目指すミルキィホームズにとって挫折は深まる。そう考えると、アニメ版に深い闇が立ち籠めてくる。
もちろん「だめだめ」が文字通りだめと言い切るのは極論だ。ただイモを食って談笑するミルキィホームズの姿に僕は生の美しさを感じた。探偵として活躍し名声を得ることだけが人生の価値ではない。「ふたりはミルキィホームズ」のミルキィホームズは「全盛期」と「だめだめ」の二つの人生によって成り立っているのではないかと想像、期待する。それが僕にとっての、まるごとのミルキィホームズである。