学部生の研究

やりたいことってべつにないなあ。研究を進めつつ、動機づけや理論武装(マイティーチャいわく筋の通った言い訳)に苦心する先輩がたを拝見していると、そこまでの熱意と意義を注ぎ込んで、わざわざ苦労したいことがあるか、というと疑問。理解すること、発見すること、解決することの楽しさ、総じて知的好奇心なるものは間違いなく少なくとも人並みにはもっていると自覚する。絶望を感じるわけでもない。
伝統的な、基礎を重んじる、数理的な分野に限るかは存じないが、学部生ごときは方法すらわかっている問題を解く。修士で問題を解く方法を発見する。それからやっと問題を発見するような、教育的なモデルは、問題を問題として認識することの意義づけという抽象的かつ論理的なレイヤを要することから、その妥当さを推して同意できる。
のんびり考えれば、やりたいことをやること、いってみれば解決の提案および問題の発見にこだわって焦ることもない。ばくぜんと方法を身につけて、調子が合えば、だれかしらの問題に解決を提案できれば楽しい。抽象と論理の責任をなすりつけて。
逆にいえば、わたしが問題を主張する、というのが、つまり社会的重要性をわたしが説くことが、綱渡りするようだ。ならば問題とは権威なのか。それも窮屈だ。
もう少し身近に考える。わたしが主張するにあたる問題をどうやって見つけるか。ひとをハッピーにしたい。問題があるとハッピーを妨げる。問題を解決すればハッピーなのだ。だから、よい問題はわれわれをいじめるものだ。日ごろ味わう、やな感じが、ハッピーへ通じている。
やな感じであることを自覚できないという難しさがある。だから、わたしは、社会的にやな感じでないことを、そのやな感じでないことが社会的にやな感じであることとして主張しなければ、問題を発見できない。なるほど難しい。
権威としての問題に取り組むのも十分に意義をもつ。一方で、やりたいことをささやかにやるために、ちょっと落ち込みそうな見方で感覚を振り返ってみる。何がハッピーかなんて、ましてや社会的に、なんてわからないけれど、もしかしたら問題をひるがえさないとハッピーを発見できない倒錯にすれ違いながら、わたしの主張を探せるかもしれない。