なんの熱意もないコミュニケーションの機会

すごいですね、と言われることは、たいてい、どうでもよいことだ。すごいということは、ふつう、簡単でないことだ。簡単でなさ、には、物理的なもの、経済的なもの、技能的なもの、心理的なものなどがある。いろいろな組み合わせとフィルタを通って、結局は心理的な簡単でなさ、つまりは抵抗感が沈殿していく、と思う。熱意が、なければ、ないほどに、そのおこないは澄んでいく。
ここに熱意を誤読されることは、どちらかというとありがたさのほうを感じるけれど、熱意のなさをありのままに打ち明けることが失礼に当たる場面もわきまえないといけないのが恐縮だ。しかし、したたかに、ありたい。おこないの、熱意のなさの表明を、ためらうことはともかくも、熱意のなさへの恐縮は、嘆かわしいと自戒する。
一般に熱意の大きさは機会から得られるものに貢献すると思われる。それはよい。だから熱意はとうといといえる。けれども、しかしこれは感覚だけれど、どんな熱意も、機会そのもののとうとさをおかすことはできない。とうとき機会は、この熱意のなさを寛大に受けとめてくれよう、いいえ、ください。この熱意のなさを誇れるとしたら、そのすべては熱意その者でなく、機会によるものだ。したたかで、謙虚な、誇りだ。