個人サイトが持つ「意識」

意識とは

僕たち人間には、意識があります。この意識こそが、人間が人間である根拠だとも思います。それでは、そもそも意識とは何なのでしょうか。

医学的には、「自分の置かれている状況を客観的に正しく把握する能力」を「見当識」といいます。たとえば、「ここはどこ?」「あなたはだれ?」「いまはいつ?」という三つの質問によって、見当識の程度が確かめられています。これらに正しく答えられたら、その人の意識は正常であるということです。(参考:立花隆『知の現在』)

極端な話、ただ答えるだけならコンピュータでも可能です。だからといって、コンピュータが意識を持つとは考えがたいです。一方で、これらの問いに本質的な意味を求めることは困難です。たとえば、地名、名前、暦、これらを用いずに上の問いに答えられるでしょうか。

この本質的な問いに(たとえ答えられなくても)考えを深めることが、人間としての意識を持つことの証明であると思います。

個人サイトという人格

あたりまえですが、僕たちは生きています。その場は、世界や社会や宇宙(以下、これらを「現実」と呼びます)と称される空間です。見当識を確かめる際、その対象は、「現実」空間に生きる人々です。

では、インターネットという空間は「現実」といえるでしょうか。もちろん、「虚構」ではないはずです。しかし、「現実」にある自分の人格を、そのままインターネットにおいても表現している人は、少ないのではないでしょうか。

ネットと「現実」の間には、コミュニケーションに質的な違いがあります。そこに存在する自分は、“ひとつの自分”のようで、実は違った存在かもしれません。ネットにおける「自分」を表現するためには、たとえば「個人サイト」という手段があります。

自分の持つサイトは、自分の手によりすべてが構築されます。極論すれば、「個人サイト」は「自分」です。自分が持つ「個人サイト」に問いかけることで、そこに存在する「自分」の意識を確かめられるのではないでしょうか。

ここはどこ?

サイトはインターネット上にある。インターネットとはどこか。単なるハードウェアのネットワークなのか。しかし、サイトに記される情報や意見は、物理的には存在証明できない。インターネットの、どこか。サイトは無数にある。その中の、どこか。つながりもある、それはどこか。

あなたはだれ?

そもそも個人サイトとは何か。何の意味があるのか。個人サイトは「『だれ』か」なのか、それとも「『なに』か」なのか。生きているのか、意識はあるのか。何を望んでいるのか、何を望まれているのか。「あなた」は僕か、僕が「あなた」なのか。

いまはいつ?

始まりはいつか、終わりはあるのか。続いているのか、続くのか。変化はあるか、そして何が変化するのか。既に、変化したのか。過去は、歴史は、あるのか。これからどこに向かうのか。

あなたの持つサイトに問いましょう。それは同時に、あなた自身への問いです。