いまに関する諸考

「こころを豊かにする」と言ったとき、僕の場合、文章に書けるというかたちで表れる(というのは仮定である。注目したいのは、そこにいたる過程の特性である)。恒常な「豊かなこころ」「こころの豊かさ」とは違った、こころのいま。このこころのありかは脳みそにほかならないと思う。(この話題からはやや逸れるが、「こころのありかは内臓だ」という言説については、一度まとまった文章に習いたい)
眠いという状態の不思議。独立した世界。まどろみから抜け出そうとあがく手足が、それ自体に囚われている泥沼。まるで脳みそからこころへ因果を通せないように。
ならば世界を切り替える。観念としての手足を、切り落とす。たったひとつの億劫なやり方。
つまるところ、何をするかというのは肝心でない。それをすることで作用する、自体、および他体への影響をかんがみれば、それをすること(という表現)の単純性が浮き彫られる。渦巻くみずうみのどこに箱舟を浮かべれば、あまたのいのちが救われるであろうかなど、神にさえも知りうるすべはなかろうに。