記録、記憶、ブログ

ちかごろはエディタにぞろぞろと日記を書いていて、あの、事実と感想を無作為に書き連ねるまさに日記という感じの日記なのですが、それは単純に日常がすてきで、忘れたくないからなの。残さなければいとも簡単に忘れてしまうのですね。たった一枚の絵で、は、その感触も合わせて、鮮烈にありありと思い起こせるけれど、その前後がごっそりすっぱり抜け落ちて、何がしあわせだったかもよく思い出せないのですね。それはそれで、すてきなのですけれど。
書くことは記録だと思っていたのですね。忘れてもよいため、ともいえます。どうせ忘れるのですから、忘れるため、というわけではありませんし、覚えるためでもなくて、たとえ書いても、読み返さなければ先ほどのように記憶が絵化してもんもんと枕の上に浮かび上がります。
そういう、書くこと、記録。残すこと。それ自体は、もちろんわたしという脳内を経ていることは前提ではあるけれど、脚色や編集のないものとしておこなわれます。読み返したときにはじめて機能し、逆に機能がないかもしれない、結果としてそれははじめから機能をもたない行為になる。である、のかもしれない。
しかし、どうもこう、記憶も、同じくらい大切なことだと思いました。記憶とはプロセスだと思います。認識できないもの、興味のないもの、難解なもの、納得いかないものは記憶に残りにくいです。記憶は単純なインプットそのものではありません。それを自覚すれば、ある程度そのプロセスに踏み込むことができます。もっとも単純に問えば、大切か、大切でないかです。
幾層にも潜り同じ問いを繰り返します。はじめは、全体にばくぜんと向けた、それ自体の重要性を問うことです。より詳細になれば、測るというよりも選ぶという側面が強くなります。
事実と感想をできる限りありのままに、と願っても、きっと言葉はいささかほどで、ほかの何かに補われて成立しています。それを記憶とよぶのはあまりに紛らわしいので、単にわたしと考えるほかありません。裏を返せば言葉は支えられているということで、すなわち、残さざるをえないわけではない、ことがある、ということです。
記憶のプロセスに則ったままそれ自身をハックするのは頭がこんがらがりそうです。だからしるしを刻むのでしょう。わたしは記憶のプロセスに問いかけると同時に、手を動かさずにはいられません。その結果が記憶の結果です。または記録です。プロセスは隠蔽されるのですね。だから、狙い澄まして問わねばならないのです。
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