客観的でオリジナリティのあるレポートを書きなさい

レポートをやっつけで書いて提出した。ある論題について論理的・客観的に回答せよ。評価項目としてオリジナリティ・独創性(自分だけのアイデア)、論点・構成のおもしろさ(新しい展開)、論理展開の妥当性と簡潔さ(文献による根拠)が挙げられる。つまり想像だけで書いてはいけない。調べたことを書くだけではいけない。論理的かつ客観的に構成を練ってオリジナリティを発揮する。じつに芸術的で困難な要求に思える。しかし憶測でも受け売りでもいけないという指摘は常識的だ。
どのようなレポートであればこの要求に応えられるか。論理的、客観的、妥当性、根拠などの意味はこの際ひっくるめる。正しいことを誰からも明らかに書く。および、問いと意見と理由を結びつける。これでおおむね満たされる。
ここにオリジナリティを加えるなら跳躍を試みなければならない。すなわち、だれもいったことのないことを、文献によらない根拠でサポートする。出題者は、はたしてこの点に関しても論理性・客観性を求めているのか。それとも、この跳躍は想像と割り切らざるをえないか。べつの問い方をするなら、論理的かつ客観的な想像はありうるのか。もちろん知識や経験を利用することもできる。しかし知識を主張に結びつけるにも類推のような想像が必要だ。なぜこの知識がその主張をサポートするのか、という問いに文献は答えない。また問い直すなら、想像をサポートする根拠とは何か。
生物学を研究している先生が、科学にも想像が大事であると主張なさっていた。僕なりの理解として、想像は対象に対する過剰な意味づけをおこなって、考えうるモデルや因果関係の幅を広げてくれる。科学的手法を試みる前段階として、対象のもつ本質の豊かさを取りこぼさないために、想像が必要なのだ。想像は理論そのものではない。しかし考えうる論理を絞り出すという点では、たとえ正しくなくとも、論理的であると思う。その先生の研究に関していえば、想像のサポートは、そこから導かれた説明の正しさである。
想像の正しさは、その想像による説明が正しいかどうかによって決まる、という評価方法はナンセンスだろうか。対象への理解という目的に限っていえば実用的である。しかし提案や予測を試みようとするなら評価の余地はない。想像のサポートは豊富な知識と経験とのネットワークによってのみ得られるのだろうか。これは問いかけでなく疑問だが、採点者にもっともらしいと思われる、提案や予測のための想像とは、どのようなものか?
現実的には、オリジナリティを客観性から切り離すことが気楽である。これは想像に基づく意見であり、類推によって主張と結びつけることができる。この意見をサポートする理由を主張することはできるが、妥当な根拠と対応づけるためにも類推が必要である。このあいまいさにおいて、それでもできる限りのサポートを尽くして、この意見を主張することができる。



関連:大学教員の日常・非日常:具体的ってなんだ
上記において直接は参考にしていないが、具体的というキーワードは別の切り口から議論するうえで有効そうだ。具体化が重要であるのは、議論している者同士が理解やイメージを共有でき、また、理解し合えているかを確認できるからだと思う。